被災地のお祭り [プロジェクトB]
ありとあらゆるお祭りが自粛の中、しかも震災半年の慰霊祭が行われたこの日にここではむしろ近年停滞気味だった神事を復活させてまでお祭りをしました。祈祷は前日dogwoodボランティアの皆さんが全損の町を見下ろした避難所の駐車場です。
津波でもかろうじて残ったおみこしを出して御下がり(川にみこしを漬けて清め神を敬う)をして、あの日必死で駆け上った坂をねりながら高台のここへみんなの笑顔とやってきました。
子供用の飲料水を積んできたわたしのトラックも祈祷のおみこしと一緒に並びました。
コカ・コーラいろはす555mlを、この高台にある幼稚園、小学校、中学校に合計210ケース2.8トン支援しました。
この地域では子供たちには水道水を飲ませていません。それぞれ園長先生や校長先生教頭先生がじきじきに運び込みをしていただいてちょっと恐縮(元悪的に)ですが、それだけ大切なものなんです。わたしがなんでこんなにも子供用飲料水にこだわるかは、被災地の実情そのものを皆さんにも訴えているからです。
隣の南三陸町では慰霊祭を町行政総出で取り組みましたが、報道配信は共同一社がまばらな来場者席のアップでスチール一枚画像のみ。もちろん慰霊も大切だけれども。
町が本当にしなければいけないことは、慰霊のアピールではなく復興を目指す町のチカラの養成だったのではないかと思います。慰霊祭のその日、わたしは気持ちが不安定になったと連絡いただいた南三陸町内の数世帯を回る結果だったことを被災地の現実として伝えたいと思います。
半年と区切るなら何をしなければいけないのか、わたしがイベントに積極支援したこの町との差は大きすぎると思っています。
イベント準備中の早朝からこの高台にやってきた仮設住宅暮らしのお年寄りです。
前日にも書きましたが、ここからこうして全損の町を見るお年寄りの視線の先には何十年もここで過ごしたもの全てが見えているんだと思います。
『慰霊祭なんて後ろ向きナことよりも、お祭りで前向きなほうがそれはそれは亡くなったみんなも上から喜んでみてるっさ』と。
この方は、海沿いの店で商いをしていたときのこと、そしてやっぱりあの土台だけの家はお得意さんでとか、あそこの家の人はどおだったとか、いつまでもたくさん話してくれました。
そして・・・
このお祭りの場で、商いのお客さんたちと再会をして、お昼ごろまで次々となじみの方と話し込んでいました。
支援してよかったと思いました。
暗くなり始めてからNHK特集を仮設住宅で一緒に見たり、2時間以上長電話したり、メールで複数並列してやり取りしたり、たくさんの世帯とコミュニケーションして南三陸町で一晩待機し続けました。
こんな日がずっと続くんだと思います。さっき仙台の調達先まで移動しながら何回か仮眠しましたが、それでも出来るだけ心の支援もしたいと思っています。時々わたしが全てをかけて支援したいとここにも書きますが、それでも足りないほどの状況です。
宣伝ポスターやさまざまな報道管制など、結局真実が伝わっていないことに政治的圧力を強く感じる日々です。
前日この全損の町を見下ろす避難所を始めての被災地内として訪れたわんにゃんボランティアの方に今日になって感想を聞くことが出来ました。多くの方がその場では状況を理解できない、次元の違いから言葉も無く挨拶だけしてその場を去る様子と似ていましたが、彼女の場合は少し違っていました。
実際に被災した方がいるその場では申し訳なくって泣けなかった。あまりにも報道と違っていて気持ちに行き場がなかった。
結局今日になってわたしの前で大泣きとなって、それでもわたしはそれぞれのディテールをもう一度説明するしかないけれど。
その状況を生き残った動物達のために来月もう一度滋賀から来ますと言ってくれたその言葉が、お世話ボランティアで動物達と接する姿勢からきっとわんこ達にゃんこ達にも伝わっていたと思います。
わたしたちもその言葉に負けず、担がれてその場にいるわけではない第一線を再認識したいと思います。
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